由緒沿革
今熊野観音寺

四季折々美しい自然の中に広がる幽寂なる空間、熊野権現示現の伝説の聖地
東山三十六峰今熊野山のふところにいだかれて今熊野観音寺は荘厳なるたたずまいを見せております


今熊野観音寺は


として名高く、また古くからの霊験記にも記されている通り「頭の観音さん」として広く人々の信仰をあつめ
毎日多くの善男善女が参拝や巡礼におとずれ、大変にぎわっております

御本尊十一面観世音菩薩
(秘仏、弘法大師御作と伝えられる、身丈一尺八寸)
御真言「オンマカキャロニキャソワカ」
または「オンロケイジンバラキリク」
脇仏不動明王(智証大師円珍作と伝えられる)
毘沙門天(運慶作と伝えられる)
御詠歌「昔より立つとも知らぬ今熊野 仏の誓いあらたなりけり」
(花山法皇の御作と伝えられている)
寺紋「今熊野浪」
立浪の紋章の中に環が描かれている


縁起

縁起

平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国され、東寺において真言密教の秘法を修法されていた時、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのをご覧になられました。

不思議に思われてその方へ慕い行かれると、山中に白髪の一老翁が姿を現わされ「この山に一寸八分の観世音がましますが衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と語りかけられ、またその時に一寸八分の十一面観世音菩薩像と一夥の宝印を大師に与えられました。老翁が立ち去ろうとされたので何びとかをたずねると「自分は熊野の権現で永くこの地の守護神になるであろう。」と告げられて姿を消されました。
大師は熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め奉安されたのが当山のはじまりです。弘法大師御作のこの観世音菩薩像は秘仏として大切にまつられ、一千二百年の長きにわたって衆生を利益し続けておられます。
またこの時に大師が観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぶために錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。そして今に到るまで湧き出し私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。

歴史

草創期

草創期

観音寺の歴史を語る伝説や史料はたくさんあります。特に創建当時を伝えるものには諸説見受けられ、その歴史を明確に示すことは困難を極めます。しかしそのことがすなわち歴史の古さを物語るものとも言えるでしょう。
開創期におけるおもな所伝をまとめてみると、

  • 大同2年(807)弘法大師(774-835)が熊野権現のご霊示を受けてこの地に庵をむすばれた。すなわち大師が唐の国で真言密教を学んで帰国された翌年のことである。
  • 弘仁3年(812)大師は嵯峨天皇から官財を賜わり勅旨を奉じて諸堂を造営された。
  • 天長年間(824-833)に開かれたとする所伝はこの造営の完成を伝えるものと考えられる。
  • さらに左大臣藤原緒嗣の発願によって広大な寺域に伽藍の造営が図られた。
  • その造営は緒嗣なき後も続けられ、亡父緒嗣の菩提のための事業として藤原春津に受け継がれ、斉衡2年(855)に果たされた。


といった歴史的経過が浮き彫りとなります。

西国札所としての観音寺

西国霊場としての観音寺

西国三十三の札所巡礼は大和長谷寺の徳道上人によって始められたと伝えられています。今日西国霊場の中興の祖と仰がれるのは花山法皇(968-1008)です。十九歳の時に出家され比叡山に上り、また書写山に性空上人を尋ね熊野那智にもたびたび御幸されています。このように天台・真言などの高僧や修験者らの間では修行の場を求めて、諸霊場を遍歴する人たちが多かったものと思われます。これらの人々によって西国の札所巡礼が益々盛んになりました。

現存する最も古い西国巡礼の記録は三井寺前大僧正行尊(1055-1135)の『西国巡礼手中記』ですが、これによると現在の札所寺院名がそのまま挙げられています。札所番は時代により変わったこともありますが現在の札所番は室町時代ごろに定まったとされています。
当山は西国三十三所第十五番札所に列せられています。

熊野信仰と今熊野修験

熊野信仰と今熊野修験

古くから紀州熊野の地は南方にあるという観音の補陀落浄土としての信仰の中心でありました。

そして京都今熊野の地にも熊野信仰とその本地仏としての観音信仰が栄えました。白河天皇(1053-1129)のころにはすでにこの地は熊野修験の中心地であったことがわかっています。

この今熊野権現とその本地仏とに対する信仰は、九州の宇佐信仰の習合した山岳仏教・九州豊後の国の国東半島を中心とする一帯に平安後期からおこった今熊野権現とその本地仏を信仰する修験に大きな影響を及ぼしました。

京都今熊野は中世の九州方面の熊野信仰の本山格としての地位におかれていたのであります。

鳥戸野と観音寺

鳥戸野と観音寺

東山七条の東の峰を阿弥陀ヶ峰といい、その峰の南西一帯を鳥戸野(とりべの)・北西の一帯を鳥辺野(とりべの)と字を書きかえており、また両方を合わせて鳥部野(とりべの)という字であらわします。

今熊野と呼ばれる一帯、阿弥陀ヶ峰の南西側鳥戸野の地は、古くから高貴な方々の葬地である一方鳥辺野は庶民の葬地でした。その鳥戸野の葬地を掌っていたのが観音寺であります。

当山の古くからの寺域には今も鳥戸野陵があります。

そこには、長保2年(1000)に崩御された一条天皇の皇后・藤原定子が鎮り、その他多くの皇族方、藤原道長(996-1027)をはじめとした貴族方の火葬塚が同域となっており多くの方々の葬儀や法要が観音寺にて執り行われました。文暦元年(1234)後堀河上皇が御年二十三歳で崩御されると観音寺陵を築き、現在の本堂が南面されているのに対し北面して永く本尊を拝するように葬られました。

このように平安中期以来綿々と皇族方の葬送の場となり、鳥戸野の管掌寺院として皇室との御縁をつなぎいよいよ歴朝の崇敬を得て栄えました。

清少納言と観音寺

清少納言と観音寺

中古三十六歌仙の一人「枕草子」の作者として知られる清少納言(生没年未詳)は、その父清原元輔の邸宅が現在の観音寺境内地付近に有ったことから、観音寺の近くにおいて生まれ育てられました。
清少納言は一条天皇の皇后定子に仕えて寵遇を受けました。定子皇后が崩御されると皇后を葬る鳥戸野陵が観音寺近くに造営されましたが、それにともなって清少納言も自分が生まれ育った観音寺近くの父の邸宅のほとりに住まい、寵遇を受けた定子皇后の御陵に詣でつつ晩年を過ごしたものと思われます。


このことは『赤染衛門集』に

元輔が昔住みける家のかたわらに清少納言住みしころ、雪のいみじく降りて隔ての垣もなくたおれて見わたされしに

   あともなく 雪降る里の荒れたるを
     いずれ昔の垣根とかみる

また『公任卿集』に

清少納言が月輪にかえり住むころ

   ありつゝも 雲間にすめる月の輪を
     いく夜ながめて行きかえるらむ

と記されていることなどからもそのようすが偲ばれます。
このように清少納言と観音寺との深いえにしを思う時かぐわしき平安文学がここ今熊野観音寺の地から生まれ育まれたことが偲ばれ、その歴史とロマンに想いをはせずにはおられません。

後白河上皇と観音寺

後白河上皇と観音寺
後白河上皇と観音寺

平安末期の永暦元年(1160)には、後白河上皇(1127-1192)がこの地に熊野権現を勧請され、当山のご本尊をその本地仏として定められ「新那智山」の山号を賜り山麓に新熊野神社を造営されました。
古くから紀州熊野の地は、南方にあるという観音の補陀落浄土としての信仰の中心であり、歴代の上皇・法皇はたびたび熊野御幸を重ねられ後白河上皇も御幸されること二十七度に及びました。しかし、都より遠く隔たった熊野の地への御幸は容易ではなく、また後白河上皇のころには世情も不安定であり御幸を断念せざるを得なかったのでありましょう。そのためにも、古くから熊野権現出現の伝説地でもある今熊野の地を紀州熊野の観音霊場になぞらえて、社殿を山麓に造営され、また神社と寺を結ぶために観音寺大路(現在の泉涌寺道とほぼ同じ)を通されました。そして熊野御幸のための御潔斎場としての御精進屋を観音堂近くの浄地に設けられ、ご精進中またはご参籠に際してはこの観音寺大路を往還されたのであります。遠隔の熊野の地への御幸も国に大事があっては叶わず、しかしそのような時こそ今熊野の地へ籠もられて、源平争乱の世に処して国のなりゆく様を案じられ神仏に祈りをこめられたのでありましょう。後白河上皇は嘉応元年(1169)に御出家あらせられました。
また、後白河上皇は御持病の頭痛を当山の観音様の御夢告によって平癒されて以来世の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになりました。

戦乱から復興へ

その後南北朝時代の兵火に見舞われましたが、北朝の朝廷や足利将軍の配慮によってすぐに復興されました。また応仁・文明の大乱でも伽藍は消失しましたがその後復興されています。
天正8年(1580)の日付で「造東山新熊野観音寺状」という勧進のための一巻が残されていますがこの時にかなりまとまった堂宇が現在の地域に建立されたと思われます。今の観音寺本堂の位置はかつての奥の院順礼堂にあたると伝えられていますがこの時に定まったものと推測されます。
江戸時代になると西国霊場巡礼が益々盛んになりました。正徳2年(1712)には宗恕祖元律師によって現在の本堂が建立されています。
そして今なお多くの参詣者が集う霊験あらたかな聖域として歴史と法灯を伝えています。

戦乱から復興へ
戦乱から復興へ